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[対談 全き素直さで対象物の真体を把握する.-最終回-] 掲載:2004/10/12 聞き手:松里 凰山(也太奇代表) 語り手:野尻 泰煌 原稿:書藝要説第十六号より抜粋
* 批評の重要性 凰山「作品を判断する上での客観的意見といえば、他人の批評ですか」 野尻「そう。これはとても大切。定説っていうのは往々にして万人向けにまとめられているから、ココっていうところに届かない。ところが、批評ってのはまさに、自分を指しているわけだからね」 凰山「的外れな批評も多いですが」 野尻「んま確かにほとんどは的外れだね(笑)。でも構わないんだよ。的外れであっても、客観性は得られるじゃない。それが例え、嫉みや悪意からくるものであってもいいんだ。客観性であることには間違いない。それはそれとして、自分の仕事の為には、全てを養分にしたいからね。人の言葉や評を出来るだけ肥やしにしていくことが一番いいよ。その言葉がどう転んでいようと自分にとってはプラス材料になるよ」 凰山「それで先生は、批評、批評を、って聞きまわるわけですか。良いこと言うと、真剣にムッとしてますよね先生って」 野尻「おためごかしは聞きたくないからね。現代はスマートに生きる人が大多数になっちゃて、辛口な批評がないよね。また、ちょと言われただけでカッとなったり、否定したりしてね。一つの客観性としてありがたいって思うぐらいじゃないと」 凰山「陰口は多いですけどね」 野尻「陰口も、煮詰まって表に出てくるというのがあってね、この表に出てくるものって必要なことがあるんだ」 凰山「煮詰って、極まって来ればよしと」 野尻「ただ単なる陰口の段階では駄目だね。煮詰まらないと」 凰山「でも、陰口って往々にして・・・」 野尻「そうなんだ。陰口には心理的な動機があってね、ほとんどは自分達の私利私欲を隠匿したい我利我利なものが多いね。もっと言うと、自分の世間には知らせたくない裏側の現実をね」 凰山「あーなるほど。自分にも心当たりがあります(笑)」 野尻「いずれにしても、良きにつけ、悪しきにつけ、安全圏に立ってその中でしかものが言えないってのは情けないね〜。飲み屋では、あーだこーだ言って、実際の話、責任を取らされる場所では、貝のごとく口をつぐんじゃうんだ。やだね〜」 凰山「うわははは。でもですね〜、実際のところ批評を言っても聞いてくれないですよ。言うだけ疲れちゃいますけど」 野尻「それは自分の批評に責任を持つからだよ。それこそ無責任に、素直さでパーッと言っちゃえばいい。言ったあとは、誰そんなこと言ったのは?みたいな風情でさ」 凰山「ひぇ〜、そんなんでいいんですか!?」 野尻「聞く側も聞く側でさ、しれーっと聞いて、心のどこかに引き出しとしてしまっておけばいいのに、いちいち真に受けちゃうから。批評は客観性を得るためであり、その意見通りのものでもなんでもないわけだから。常日頃言っているように、精神的には自在さがないとね。「ねばならない」という固定概念は捨てて、あらゆる選択肢があるという感じで、自己の精神を自在にしておく。大切なことだよ」 凰山「どうしても自在さが得られない時は?」 野尻「放置する。もしくはこみ上げてくるものを自ら欠くか」 凰山「先生は作品制作の場合、どうされてますか」 野尻「古典に戻るね。しかも、ただ戻るのではなく、まずは出すだけ出して、これ以上ないってぐらいに出し切ってから戻る」 凰山「あえて偏らせて、思いっきり逆をいくと。正反合ですね」 野尻「そうだよ。人生その繰り返しだね。現代で広く取りざたされている創作、アートとは違う。もっと高い次元の活動だよ。時間はかなりかかるけど、こうした創造的営みは必要なんだ」 凰山「インタビュー前半に出てきた血液的美感に深く関係がありそうですね」 野尻「伝統芸術には、現代のように敢えて個性的であろうとする装飾や誇張はないよ。結果的に漂うんだから。それで充分なんだよ。個性を目指している時点で、陳腐以外のなにものでもない」 凰山「変ったものは目につきますからね」 野尻「変ってるからね。(笑)ただし、良いものとは別な意味だよ。ただ、変っているだけ」 凰山「それでは、結果的に漂うもので、『あーあの人だ』とわかるものであればいいんですね」 野尻「そうなれば至高だよ。(笑)」 凰山「その為にはまず『全き素直さ』で自己の審美感を養うと。そして、対象物そのものを捉える。見る力、聞く力ですね」 野尻「上手に出来るかより、ちゃんと見えているか、ということが根底にないとね。そこから始まるんだから。結構、見えてない、聞こえていない、多いからねー。見た時点で既に思い込みがあるんだよ。まずはこの眼にフィルタを加えない」 凰山「そういえば、目撃証言ってかなりあてにならないみたいですよ。警察もやはり最大公約数をベースに動くみたいです。だから証言は多いほうがいい。思い込んじゃっているんですね」 野尻「昔から言うじゃない。木を見て森を見ず、波を見て海を見ず。見えてないのに、書けないって、当然じゃない。(笑)でしょうー」 凰山「至極もっともですね(笑)」 野尻「手習いなんて、対象物を把握する為のものなんだから、下手で当たり前なんだよ。対象物を意識して一つ一つを念入りに書いているうちに、結果として上手になってくるものなんだよ。丸ごと把握してなんぼの世界だね。(笑)例えそうでなくとも書というのは仮によく書ける場合もある。それは技術的にそうでなくてもね」 凰山「それで先生は私たちの作品を選ぶ時も真剣なんですね」 野尻「そりゃそーさー、万に一つの傑作が出ないとは言えないじゃない。それ以降全くかもしれないけどさー。(笑)でも、そんなのが一生に一品できたら最高だよ。そりゃ、僕なんかは仕事だからそうも言ってられないけど、それでも至高の一品が出来たら思い残すことなんてないね」 凰山「最後に、器用さというのは関係あるんですか」 野尻「器用、不器用は関係ないね。逆に不器用なほうが、対象物に対して思い込みがないから、ものの真体がそのまま捉えられることがある」 凰山「全き素直さで見て、聞いて、感じて、自分の審美感を歪めず、そして対象を正確に捉える力を養う。知識や批評は、あくまで客観性を得るためのものと」 野尻「書に関して言えば、見るだけ見て大分遅れたところから紙に筆を置く。これが理想の取り組みだよ。数ではなく質なんだよね」 凰山「見えていれば、書ける」 野尻「書けるさ」 凰山「ありがとうございました」 終わり
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