[対談 表現は作者の了見が語られる-第2回-

掲載:2004/3/14

聞き手:松里 凰山(也太奇代表) 語り手:野尻 泰煌

原稿:書藝要説第十五号より抜粋

 

*

書の表現
凰山「書の表現において、今までの話を具体的に言えばどういうことでしょうか」


野尻「書は筆鋒に墨をつけて書きはじめる。すると、書くほどに筆鋒に含まれている墨液が徐々に枯れていく」


凰山「そうですね。紙に吸われるわけですから」


野尻「そうすると筆画がかすれる。これを渇筆と言うんだけど、かすれるから墨をつけて、また書くと。この繰り返しで、おのずと潤っているとこと、かすれているところが出てくる。つまり墨の潤渇が出るわけだよ」


凰山「はい、わかります」


野尻「そこが観賞になる」


凰山「ある意味、すごく単純ですよね(笑)」


野尻「ところが、ここに現代意識の弊害があるんだ。例えばさ、潤筆(潤っている部分)だけであれば、潤渇の変化がないわけだから、観賞には耐えないと見なされてしまう」


凰山「変化がないということになりますからね」


野尻「ところがね、その意識が問題なんだ。結果的にそこだけが拡大視され、なにがなんでも潤渇の変化だけに優劣を競ってしまうんだ。価値観を、その、たった一点に置いてしまう。そもそも、それで何の疑問も持たないていうのがまた不思議だよ(笑)」


凰山「なるほど。そういえば、作品を評する時でも、この擦れがいいよねーと、プロアマ問わず言いますね。かなり聞きますよ」


野尻「現代では、結果的に、渇筆(かすれてい部分)の拡大視がはじまった。渇に技巧をこらすのが現代の風潮なのかとさえ思える。でも、書ってそんな浅いものじゃないんだよ。そもそもね、墨がかれればおのずと渇になる。潤であっても、筆の瞬発力ではぜたものが出来るんだよ。わかるでしょ?」


凰山「なんとなくわかります。渇筆の拡大視ですが、その典型なが、前衛書道なんですかね。なんかカラスの断末魔みたいの多いですね」


野尻「それだけ書の水準が低下してしまったことなんだよ。現代性という美名の上で、真の伝統の姿が目隠しされたことにもなる」


凰山「今の書には、何が欠落してしまったんですか。観賞においては、結体や構築性、線美というのはあるでしょうけど・・・」


野尻「ほら、私がよく言ってるでしょ」


凰山「んー・・・点画意識ですか?点や画がしっかりしていること!?草書なんか、つい、ぐだぐだになりがちです。といより、私も以前はグタグダなのが草書、そう思ってました」


野尻「それだよ。更に付け足すならね、古典にみるような点画構造の変化とその秩序!これは、さっき言った日頃の働きにより徐々に積み上げていく基本技なんですよ。基本って言ったてねー、そんな今日明日に身になるようなものじゃ本来ないんだから。潤で終始一貫させた作品を書くには、その分、技術水準が要求されるんだ。それだけじゃなくて、加えて気力の確かさが肝心なんだ」


凰山「それだけ的確な力、日々の行いがまさに必要なんですねぇ。・・・あー深い、深いなぁ〜っ」


 

つづく

 

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