[対談 表現は作者の了見が語られる-第1回-

掲載:2004/2/11

聞き手:松里 凰山(也太奇代表) 語り手:野尻 泰煌

原稿:書藝要説第十五号より抜粋

 

*

隠された意図
野尻「人には色々な考えがあって、一口には言えないけど、私の場合、あまり饒舌は好きじゃないね」


凰山「お喋りは嫌いと。でも、語らなければ伝わらない部分もあるのでじゃないですか?」


野尻「いや、全てにおいて饒舌なものには、ふと心が留まってしまうじゃない」


凰山「それが狙いでは?」


野尻「だから好きじゃない。饒舌になっている真の動機は何処にあるのかなって考えちゃうんだ」


凰山「それってマズイんですかね?」


野尻「そうじゃなくて、真実らしく見えないものの方が、真を語っている場合がよくあるように感じられないかな?よく言うじゃない。恋こがれて鳴く蝉よりも、鳴かぬ蛍が身をこがすって(笑)」


凰山「すんません、知りません(笑)。でも、仰りたいことはわかるような気がします」


野尻「物事のどうでもよい些細な部分に捕らわれていると、自在さが失われてくる。ということだよ」


凰山「根っこが太らないと」


野尻「そういうこと。大きく成す為には自在さがなくては。だから、あまりここがこうだああだと拘るより、そのままでいいと私は考えるようにしているよ」


凰山「なかなか出来るもんじゃーないですけど、心に留めておきたい大切なことだとは思います」


野尻「そうでしょ。だって全てに言えることでしょ。だから表現は何にしても、いやらしく飾り立てることはせず、幹で見せる。そのままがいいと考えるわけ。逆もまた真なりというこもあるから、充分、着飾って飾り立てないと、そういうものが見えてこない場合もあるんだろうけどね(笑)。まー理屈はどうあれ、只、私の趣味はやっぱり饒舌でない方が好きなんですよ。」


凰山「それでですか」


野尻「そう。僕の体質は、自己をマッサラにしてみても、この段階へ戻ってくるね」



作為
凰山「饒舌であること、着飾ること、つまり作為というのは、そこまで良くないものなんですか?」


野尻「自然体がいいよ」


凰山「真実らしく見えないときもあると思うのですが」


野尻「真から充実しているものってね、一見するとカラッポのように感じられてくることが多いと思うよ。無限の働きがあるというのは、そんなものなのかもしれないよ」


凰山「最もらしいものは最もじゃなく。真実らしいものは真実ではないと」


野尻「無限の働きは、ほどほどがいいんだよ。腹八分でも多いかな、七分ぐらい。器になみなみと水を入れてしまうと、もうそれ以上は水が入らない。入れると出ちゃうよね」


凰山「なるほど」


野尻「いつも余裕をもって、窮まることをしないことが肝心要なんだよ。更に言うなら、何でもそうだけど、過ぎる働きには限界があるということがわかるよ」


凰山「具体的にいいますと?」


野尻「徳川家康を学べばわかるよ。彼はよく熟知していたと思うね。窮まらず、なんでもほどほどのラインで行う。それこそが、かえって究極の真相だったりする」


凰山「家康ですか」


野尻「表現も作為的にはやらない。というのが、まさにこのことなんだよ。これが究極の表現、日本の表現の真実だと思うよ。まー現代人はその逆をいっちゃってるけどね(笑)。本来ね、日本の表現は、現代の表現より、遙かに水準が高いよ。戦後五十数年で、根っこが腐りかけてるんだ。既に腐りきってなくなっているかもしれないけどね(笑)」


凰山「どっぷり頭の先からつま先までつかってますからね〜」


野尻「日本の表現は、外国表現の一部分のように、形而下的なものではなく、もっと精神的というか、霊性的というか、内在的美表現にあるわけ。だから、出来上がったものはシンプルなものが多い。つまり、判りやすいもの」


凰山「シンプル・・・であればいいと」


野尻「ただのシンプルじゃ駄目。そこには質があり、全ての理にかなった条件が盛り込まれていなければ、浅薄な結果に終わってしまうよ」


凰山「シンプル・イズ・ザ・ベスト。とい言いますが、実際は難しいですよね。うまく言えませんが、仰るようにシンプルの一言で終わってしまいます。つまり物足りないと。誤魔化すには込み入っていた方がいい(笑)。だから政治家にしても学者にしても、話が込み入っている。初めから理解を求めていない。ただ言い負かしたいだけみたいな」


野尻「そうそう。シンプルとなると、まず基本的な素材がよくないと駄目なんだ。先ずは、良質の下地からだよ」


凰山「着るものでもそうなんじゃないですか。その辺りは先生のお父さんが専門ですね(笑)」


野尻「そう。洋服でも言えることなんだ。セーターなんかで言えば、大抵の安物はセンスの悪い柄が入るね(笑)。背広でもそう。あれは柄が入らないので尚更だよ。何が違うって、毛並みが違う。良質の背広は、色合いといい毛並みといい全然違うよ。触れてみると更によくわかる」
松里「なんとなくわかりますね。つい私は安いの買ってしまいますけど(笑)、倍ぐらいしたスーツは手触りいいですね」


野尻「でしょ。まず安いものは素地があまい。コシがないんだよ」


凰山「素地、コシですか」


野尻「背広なんかは糸が短いんだ。安い吊るしものがあるでしょ、あれなんかは裁落の再製品なんだ」


凰山「裁落?」


野尻「背広を仕立てる時に出来る裁断されたクズのことだよ。安いやつは、それを溜めておいて、より直して素地を作る。そして、糸が短いから素地が弱くなり、コシがないと。色合いも悪いね」


凰山「なるほどー」


野尻「そんな背広は何年ももたないから、結果的には不経済なんじゃないのかな。つまり、シンプル・イズ・ザ・ベストは、良質の下地ということになるわけ」


凰山「へー。と、な、る、と・・・。長く持たせるには、いいのを買う。んで、長く持つということは・・・流行に流されていない普遍的なデザイン、そして色のものでないと困ると。繋がったーっ!でないと、すっごく古臭くなって、結果的に着れなくなりますもんね。更に言うなら、それを見極める目がいると(笑)」


野尻「あっはっは、ま〜簡単に言うとそういうことだよ。下地は、芸術で言うなれば、人の見てないところの仕事のこと。実は、人の見ていないところで、どれだけの働きをするかなんだよね。観賞する側というのは、もともと一部分でしか見れないわけですから。だから、饒舌な作品表現は、この裏返しに感じられてくるんだ」


凰山「どうだー俺って凄いだろー、変わっているだろー、と勢いで誤魔化そうとする、みたいな?」


野尻「そう!それが、鼻につく(笑)。人間の心理は逆になる場合があって、それが作品表現の場合、普段の素行を埋める為に饒舌になってくる」


凰山「あまり幹や根っこを太らせてないから」


野尻「そうした企みをする。意識せずともね。饒舌な作品は、足りない箇所を補っているようで、薄っぺらに感じてくる。だから、作品はその人の了見が赤裸々に語られてしまうんだよ」


凰山「あちゃー。その人の生き方そのもの、考え方そのもの、本質そのものが、実は露見しているわけですか」


野尻「そうだよ。そう聞くと悪く聞こえる人もいるかもしれないけど、だからこそ、だからこそだよ、わからない自分を発見できるし、その都度戒めながら、僕なんかコツコツとやっているわけなんだよ。加えていく仕事ではなく、削ぎ落としていく。その分足りないものを、どの程度表現できるかということが、今の私の課題なんだ。わかるでしょ?」


凰山「なんとなくですけど、わかります。わかりますけど、」


野尻「なんだい?」


凰山「ただ、スポーツと違って、良し悪しという判断は難しいと思うんですけど。好みがありますし・・・」


野尻「そこが世間の純粋なる曲解なんだよね。芸術の方がルールが無い分、スポーツより簡単だよ」


凰山「え?え?」


野尻「下手なのは下手、上手いものは上手い」


凰山「え〜・・・、いえ、その区別がですね、」


野尻「極論を言うよ。視覚的にはシンプルでわかり易いもの、誰もがわかるもの。素人が見て『こんなの俺でもかけるよ』というようなものが最高なんだね」


凰山「う〜〜〜〜〜〜〜ん」


野尻「北往路魯山人が、こんなことを言っているよ。『由来、最高と称する芸術は、絵であっても、書であっても、いと事もなげに無造作に出来ているものである。無法の法を悟っているからである』とね」


凰山「無法の法ですか。何やら高尚なものを感じますが、」


野尻「高尚じゃないよ」


凰山「なんとなくはわかるんですが、体験的実感がないので。ただ、凄く最もだと何故か感じ入ります」


野尻「書にしてもね、書くときには一切の計算が入らないもの、それが達人芸だと言われているよ。魯山人のさっきの言葉は、日本の表現という一端を垣間見ることが出来る」


凰山「それで、シンプルで中身が濃いものが最高と」


野尻「そう。シンプルと言っても、前にも言ったように拙いものじゃ駄目なんだよ。濃さ、密度、含有量なんだよ」


凰山「そこなんですよ。その含有量というのがまだ私にはわからない」


野尻「それには目を養わなくてはいけないね。さんざん言っているけど『見える』ということは『書ける』ということだから」


凰山「それが書で言えば臨書と。五反野教室の生徒さんなんかがやってますよね」


野尻「そう!あれだよ。本人達は全然気づいて無いんだろうけど、そのうち何時の間にかわかるようになる(笑)。書を書く行為は、古典によって眼を養うこと。古典で養わなければどうにもならないと言っていいよ。産まれっぱなしの感性では、書を深くまで見ることが出来ないからね」


凰山「だから先生は、書の鑑賞は書き続けないとわからない!と、言うわけですね」


野尻「そういうこと。プロでもわかってない人がいるんだから、一般の人が生まれっぱなしの感性で見てもわからなくて当然でしょ」


凰山「そういえば・・・味覚障害になると美味しい味というのが不味く感じてしまうらしいですね。日本のダシというのがわかる時点で、日本人の味覚って本来凄いって聞いたことあります。それが今では『味がない!』って言われてしまう。その結果、現代にあの『甘辛い味』が定着してしまい、それを美味しいと思っている若者達みたいな。誰かからか聞いたのですが、海外に出て本場で食べるより、日本にいた方が遙かに美味しい料理があるって言ってました。日本人はわざわざ不味い料理を食べに海外に出るって言ってましたね」


野尻「そうそうそう、それだよ。一事が万事同じなんだよ。だから、上手いのを下手、下手なのを上手いって感違いしちゃうんだ」


凰山「それをニーズと、言わばプロが迎合し、事態の悪化を加速させてるってのもありますね」


野尻「そういうこと。今と昔ではプロも変ってしまった。プロは始めはわかって迎合していたんだ。どっこい、今では本気で言ってる。わからなくなってしまったんだね。世も末だよ」


凰山「それでですか!見えていれば、どの分野であろうとわかっちゃうわけですか!」


野尻「絵であろうと、陶器であろうと、上手いものは上手い。下手なものは下手だよ」


凰山「テレビで鑑定の番組ありますよね。あれが100発100中と言っていいほどに当るって聞いて、驚きましたよ!実物ならいざ知らず、テレビ見てもわかるもんなんですか?!」


野尻「そりゃ大袈裟かもしれないけど、そりゃそうさ。実物ならもっとハッキリしているけど、テレビであっても駄物は見ればわかるよ。こっちにこないから」


凰山「いや〜・・・いかにまだ私は見えてないかってことですね。話を戻しますが、人の見ていないところの行いが充分にあって、つまり、そこで培われるのが技術と。さらにその結果、仕上げた作品に現れたものがシンプルであれば最高と!いうわけですね」


野尻「簡単にいうとそういうこと」

つづく

 

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