[講義 書の見方を教えて-見た目の変化だけでは満足できない-

掲載:2003/2/12

著作:野尻 泰煌(たいこう)

原稿:オリジナル

 

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 一度でも筆を手にして文字を書いた人は、こんな体験をしたことがあるだろう。 筆で書くと、潤う箇所とそうでない箇所が出てくる。それが気になり、そうならないように硯面で墨をなるべくおとして書こうとする。すると墨の配分が均一になり書けると思うからだ。さて、そうした先入観をもってどこかの展覧会で書の作品を見たとする。潤った箇所もあったり、逆にかすれている箇所もあったりしてびっくりする。
「こんなに潤っちゃっていいのかなー?」とか
「随分かすれているなー」と。
 ここで疑問が湧いてくる人もいるのではないかと思う。書はそれら全てが観賞材料になるから面白いのだ。一度そんなことを思うと、次には潤った・かすれた、を意識する場合もある。しない人もいると思うが、書く側にとってみれば、
「潤えばどこまで潤っちゃえばいいのかな?」とか、
「擦れればどこまでかすれちゃっていいのかな?」とか、
「筆にたっぷり墨をつけて何文字書くことが出来るかなー」とか、あれやこれやとどうでもいいことを考えて書くものだ。
 そして、こだわって意識したなら、行くところまで行ってしまったりする。しかし、出来上がったものは不自然なものだったりする。潤いも擦れもわざとらしくなる。こんなことを観賞者は知っておくと面白いかもしれない。人がはまってしまうようなアキレスポイントをあえてギューっとつかんで、冷静に見たらどうであろう。どうせアホなら書かなきゃソンソンと行くところまで行ってみるのも手だ。例えば、くねくねの文字(草書)が、よりくねくねにしてデフォルメしたりする。いっそ、一度は皆通るかもしれない一通りをイヤミなくらいやってみる。全部やってやってやって結局は回帰する場合もある。逆に、する前にまず冷静に見ることも必要かもしれない。でないと、その道で生涯を終えてしまうかもしれない。それは人によって自由である。
 さて、こんな書く側の特徴を捉えて見る側は見たらどうだろう。恐らく遂には見た目の変化だけでは満足しなくなるだろう。はじめの一歩は文字をデフォルメしたり、変化にみせられたりする。だが、そんな作品も度々みていると鼻について来る。そしてむしろ淡々と書かれたものを好むようになる。そう、見た目の変化を追わなくなる。こうした見方は一例に過ぎないが、古来より過ぎれば徐々に簡素なものへと趣向が変ることが多い。
 巷では度々耳にする言葉がある。
「変っている」
 そういう人達にこんなこを言うと怒られてしまうが、変っているものを見て変っているという認識出来るのはやさしい。だが、それだけ眼が平凡になっていると言えないだろうか。書は精神的なものだというならば、見た目の変化だけでは面白くない。
・・・と、ここまで来ればしめしめなのだが。

書の見方を教えて 終わり

 

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