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[随筆 墨は黒く、紙は白く]
掲載:2003/4/2
著作:野尻 泰煌(たいこう)
原稿:書藝要説4月号掲載予定
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「この墨の墨色はいいですか」
と、師に訪ねた人がいた。
「墨は黒いよ」
と、一言。
墨は黒に変りは無い。
あとは、書く側の腕。
腕が悪ければ、どんな墨を使用しても駄目だと。
私には、そんな先生の心の内を垣間見た思いがした。
ある仲間から聞いた話であるが、昔の展覧会場のこと。
ある巨匠がやってきた。
そして、入口で芳名録に署名した。
当然のことながら、会場の人々はその一点に集中する。大家の筆づかいを見る絶好のチャンスだからだ。すると、書きぶりもさることながら、あまりの墨色のちがいに驚愕してしまったという話である。
芳名録は展覧会場に来る多くの方々が書く。
沢山の署名が並ぶ中、その墨色だけがよかった。筆も墨も、入口受付けにおいてある同じものを使用してのことだ。書く人が書けば、たちどころに変貌を遂げてしまうのである。
これも腕の違いからくる墨色の変化と言えるのであろう。
百年前の中国では、磨った墨液を売りにきたという。墨は磨りたてよりも、ちと時間をおいたものがよいと言われる。が、この場合は、まさにどろ墨。只、真っ黒いだけのものだったとか。
先日もあるところで、清代、何紹基(かしょうき)の八幅作品を見た。この作品の墨もどろ墨だった。それほど昔は、墨には拘ったことろがなかったようだ。
日本も戦前は濃墨の作品だった。蛍光灯が普及して以来、淡墨が多く用いられるようになった。墨色の点においても、より観賞対象になってきたようだ。さらには、これを競うようにもなってくる。墨色がどうの、やれ紙がどうのと、とりざたされてくる。
墨色を淡く滲ませて、より表現を考えるようになる。というよりもむしろ演出がうまくなる。それにはあう紙を選ぶ。中国本雅仙紙の普及など、そうした情報が耳や眼に入る。その欲求にあわせて道具屋は東奔西走。挙句に、「この墨の墨色はいいですか」と、師に訊ねる人がでてくるのだ。
墨は黒く、紙は白く、あとは己のマナコを充分に見開き、手本を見て書く。素材に拘っているうちは結果はしれている。やって行く間に、どうしてもこれが使用したいとなれば話は違ってくるのだが。そうで無い限りは素材に拘ることもないのである。
まずは、色々なものを使用してみるのもいいとは思う。
人によってそれぞれだ。
「墨はどんな墨であっても、その墨の素材が充分に生きれば、良い墨色ということになります」
と、道具屋のご主人が言っていたことを思い出す。力をいれず、手の重さだけでゆっくりと磨る。確かにその墨の素材そのものが充分に生きてくる。
良質の墨でも、磨り方が悪ければ墨色は望めないこにもなるのだ。近頃では墨よりも、墨液の方が墨色がいい。
私は若い時から、墨を磨ることをしな無精者である。これには一つの理由がある。磨っている時間があるなら、その分書きたいということだ。磨っているうちに書きたいという感興が飛んでしまうから、どうしても墨液にしてしまうのだ。もとより墨は真っ黒がすきな方であるから、大して気にならないというのもある。
展覧会場では「墨色がいつも鮮やかですね。極めて良質の墨を使用しているのでしょうね。どんな墨を使っているんですか。私に教えて下さい」というような会話をしてくる方が多くいらっしゃる。
どの度にお茶を濁して「企業秘密ですよ」と言うしかない。
まさか、そこら辺で買った墨液ですとも言えない。(まー最近は言うようにしているが)それは私が墨液など使用することは無いと先入観でそのように見てしまうのであろう。墨液も今は馬鹿にならない。
嘗て、道具屋の店長にも言われたことがあった。
開場に来て「良質の紅皇牌を使用しているね。墨色がよく出ているし」と言うことだった。
私は、「なんだよ店長までがそんなことを云って、この紙はあれ、この墨はあれだよ」と言った。すると、
「えー!先生のようなお客ばかりだと店はあがったりだな。たまには良質の紙を使って下さいよ」と。
それ以来、やっぱり墨は黒く、
紙は白いものなのだと思っている。
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