[随筆 手段と目的

掲載:2003/1/13

著作:野尻 泰煌(たいこう)

原稿:書藝要説2001年1月号より抜粋

 

*

 かつて自分の個展会場で友人がこんな話をしていたことがあった。その友人が大学生の頃、本人を含めて書家志願の友人達がいた。彼らは古来の書論の全てをマスターし、東西の芸術の知識を詰め込むだけ詰め込んだ。
知識量から言えば膨大なもの。書家としても充分確信が持てたようだった。司法試験さながらの努力である。そして夜は仲間が集い書論や清談に熱を傾けていた。
互いに意見を述べ合い物事の見極めに丁丁発止。より宴が盛り上がっていく。一番幸福な一時であったのであろう。
やがて、そうした日々の中で具体的に実作の立場に立たされることになった。結果、頭を垂れ意気消沈した彼らの姿が目の前にあった。かける言葉もなく只見守るだけ。あれだけ努力した知識も実践では無用の長物だった。卒業後、結局サラリーマンになった。あれだけ語り合ったその夢と情熱はなんだったのか?
「知っていることと出来ることは違うんだよね。こういうのが友人には沢山いるんだよ。現代教育の弊害だよね…。」といっていたことを想い出す。
 理論必ずしも実践の前提にあるとは限らない。書論に関してはこれがはっきり言える。あくまでも実作の為の控えに過ぎない。
作曲然り、音符を覚え和音を覚えたとしても、実際の音が体にない為、どんな音になって聴こえてるかわからない。楽器によっては異なって響く場合もある。知識や観念で作曲をするとおばけのような音になるとか。百年の恋もさめてしまうらしい。そういう意味で現代社会はこれを象徴している。
 知ることも大切ではあるが、先ずはなにが出来るかであろう。この頃ではITといわれインターネットといわれ騒がしいが、目的を遂げる単なる通信手段にすぎまい。個人が確立していなければならないはず。ライセンスがどうのと言われ久しいが、昨今ではそれすら危うい。
 近所に理髪業界では日本で一・二を競う名手がいる。そんなことも知らず、幼少からその人にやってもらっていた。
鏡ごしに私の顔を凝視する。その見方が尋常でなく腹をかかえて笑ってしまうこともあった。こんな想い出があるだけで名人などとは夢々しらず。そして、どういうわけか日曜日の度に足がむいていた。刈る所もなく難儀していたようだ。そうこうしているうちに私も大人になっていた。店には全国から多くの若者が修行に来ている。
おじさんに聞くと「国家試験を取ったものの使いものにはなりませんよ。」という。
新幹線で関西から足しげく客が来店する店も珍しいが、こうした店も今では暇だとか。先日もある所で出会って話をした。陶芸をしたいということであった。
「それでは本業をなるべく早く辞めて作陶に専念する必要がありますね。時間がありませんよ。」と言った。
「はい。所詮、髪は一ヶ月の命ですから。」という言葉が返ってきた。
「私は字が下手で何かうまくなる手段はありませんか。」
「下手なら下手という向い水を使うとよいでしょう。そうすればうまくなる可能性も残されているかもしれません。」
「なるほど、この歳で漸くそのことが理解出来るようになりました。」
話はくどくなるが、何が出来るかにしても、出来る度合があろう。何がどれほど出来るかに全てがかかってくる。ものごと全て広く浅くこなすこともよいが、現代社会の特性からいくとより深さが求められるのではなかろうか。
特殊技能が持てはやされる昨今、そのことに気付かされる。しかし、冷静にみると、どの道においても深度はあるもの。なんでも良い、どんなものでも深く探求する時代の特徴といえる。そこにこれからの生まれる突破口があると考える。
「なにがどれほど出来るとか。」という漠然とした答えに対し、絶対的究極的解答が一つある。それは「如何、自己の眼で的確な判断で偏ることなく対象物が見えているか。」ということである。出来るという基本は、先ず見えていることからはじまる。そんなこと当然のことと決めかかる人もいると思われるが、果たしてそうであろうか。
ある誌上にこんな興味深いことがでていた。なにかの集会で家族の顔を描いてみる実験を行った。(当然、前から知らされず突然行われた)本人を前にしてなら描けるがなどと言っていたという。いつも見ている家族の顔すら描けないのである。人間の眼とはそういうもので見ているようで、その実見ていないのが現状であることがわかる。眼を通して只ものを写しているだけに過ぎない。
 子供達には「いかに上手に書くか。」というよりも「いかに結体が的確に見えているか。」を優先している。
つまり「一筆で書けなければ、ニ筆、三筆、何筆加えてもよいからより対象物に近づけて」と言っている。具体的には形相と質料についてのことである。弱冠ではあるがこのことが身に付いてきたように感じる。
このことは全てに渡る最大公約数であり、今後において全ての道で生きてくることがらであろう。例えそれが今は出来ないとしても、行った経緯と考え方の記憶は残る。今後の人生の糧にはなると思うのである。
 知ることよりも。出来ることよりも。先ずは見えることが第一。人の眼は練磨次第。見ることと、観賞することと、いつしか洞察力に変わる。インドでは思索。中国は行。日本は観賞と昔から言われている所以であろう。これは日本民族の特性とも言える。
思索だけなら空論になる。行だけなら自己の背が見えてこないことにもなる。見る練磨によって自意識が生じ主体性が出来る。的確な判断でなにがどれほど出来るかにつながる。その上で思索もそれに伴ってバランスのよい営みにもなろう。
 この時代、今このことが一番問われるべきなのだが。

 

※掲載されているデータの一部または全てを許可無く配布・再掲載することは禁止されています。

※Copyright ©2002 泰煌泰煌 All rights reserved. Since 2002/12/17.

※Produce & Digital Created by 也太奇.net http://www2.ttcn.ne.jp/~yataiki/