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[対談 現代の弊害]
掲載:2003/6/27
語り手:野尻泰煌
聞き手:凰山
原稿:書藝要説十四より抜粋
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個性と伝統
凰山「昨今特に個性、個性と聞きますが、先生は個性をどう考えられますか?」
野尻「個性ねー、何かの出会いみたいによって出来る。と、今は履き違えている気がするね。個性とは、生まれもって人に備わり、身体の底に流れているものだよ。敢えて個性を考えることもない。沈ませておく。そういうものじゃないかな」
凰山「なるほど。では、私もつい言ってしまいますが、よく個性的とかいいますよね。その個性的についてはどうですか」
野尻「個性的の『的』とは、『そのものではないが、のようなもの』という意味であって個性ではない。結果を先に言うならば、オリジナリティーを追求すると個性は逆に表れないということかな。現代は意識に倒れているんだよ」
凰山「ぬぉっ。いきなりきましたね。そういえば確かに、個性的イコール、オリジナリティーと聞こえますがそうではないと。では、オリジナリティーとは?」
野尻「真のオリジナリティーは脱個性の中より表出するものじゃないかな。というのも、脱個性という意識を持っても駄目だしね」
凰山「うーん、難しくなってきましたね」
野尻「つまりね、とかく個性的であろうとして、人より変った形づくりをしようとする。それは作為なんだ。人間はさー、何々であろうとするっていう段階から大脳皮質が働く。俗に言う思慮分別だよ。理知の力で個性的にする。そういうのは知恵くらべの演出ごっこ(笑)というんだよ。人は心のすわりをよくしようとして何事も完結的にするかたむきがあるけど、そうした心情ではいいものが出来ない。いい人生をおくれないと思うよ。意識してもその意識に倒れない心術でやればよくなるよ。意識倒れは全て駄作。凡作でもいいからコツコツとね」
凰山「なるほど。作為は個性でもオリジナリティーでもないと」
野尻「そう。近頃、芸術、芸術と騒がれるようになったけど、芸術であるからには、伝統の上に成り立ったものという一つの制約がある」
凰山「伝統は制約なのですか。その中で自己を表現すると」
野尻「表現するというか、制約の中の営みかな。それが巷ではそうではない場合がある。『私はそんなものよりも、自己の感性とイメージでやる』という人」
凰山「多いですねー。というよりほとんどかも・・・」
野尻「私も以前聞いたことがあるんだけど、いつの時代も伝統を無視する風潮はあるんだ。やっぱりそんな作品を見るとこじんまりしているね。何かのベース(模範)があって、その上に乗っているものは大きさがあるよ。自分や個人だけを意識しても小さくまとまるだけ。だから現代はピンポン玉の変化球のようなものばかりが多いんだと思うね」
凰山「昔から言われてますよね。今の若いものは!なんてある種そうじゃないですか?ちょっと違うかな(笑)」
野尻「伝統を無視した段階からデザイナー的な仕事になる。書作にしても、絵にしても、彫刻にしても、なんであれ模範になるものを見つけ出すことが肝心だよ。自分の眼で好みのものを見つけ出し、それと寄り添っていく間に、自己の体質に合う合わないがわかるようになる」
凰山「うーん、具体的には?」
野尻「よくこんなことがある。いい茶碗だから購入して使ってみると、なんだか自分のものではないような感じがするとか。また、これがいいと思う洋服を買って家で着ると、知らずタンスの肥やしになっているとか」
凰山「あーあるある!(笑)ありすぎて肥やしばかりですよ。私がいいなーと思って着るものって、ほっと似合わないんですよ。腹が立つほどに」
野尻「あっはっは、誰しもある経験だよね。それは、見ていいものが必ずしも自分の体質に合うかわからないということなんだ。一旦寄り添って初めてわかるんだ。本来、着るものは、自分の体に馴染んで出来るだけ負荷がかからないものがいいと思う。これは長い目で見ると健康にも係わってくる。私は時計も身につけたことが無いけどね(笑)」
凰山「時計もですか、それはまたどうして?」
野尻「身につけるものはなるべくシンプルがいいから」
凰山「そうか。頭の理屈ではどーせあわないとか、必要ないとかわかっていても、身体が言うことを聞かなかったりね(笑)。身体の奥底から『欲しい、欲しい』を連発するんですよね。んで、結局着なかったり。つまりはしっくりいかなかった。自分の中にはなかったっていうことなんだ」
野尻「そう。書にしても色々な古典がある。一通りのものをやって、その中に必ず自己がうつる、欲する古典があるんだよ。それなのに、自己の体質とは逆に、大脳皮質の働き(意識)によって、真の自己を見極めることの妨げになる場合が往々にしてあるんだ」
凰山「なるほど。なるほどなー。好き=自分に合うとは限らない。それを知るには色々やってみないと自分をしれんちゅーわけですね。そういえば書に関して、私は楷書や隷書のような結体の美しい、構築美がとかく好きなんですが、正直書こうという意欲は湧かないですね。湧いても一枚書き終える頃にはイラつく自分がいますもん」
野尻「でしょ。だから、こんなはずではないとか、もっと華麗なものが好みだとか、何が流行っているんだ、かにが流行っているんだと気持ちが揺れる。書に関して言えば、読めない字を書いたってしょうもないとか言ったりしてね(笑)。全てはそうした思慮分別を捨て去って本能のままに自分をゆだ?委?ねる。書なら色々な古典を書く。不思議なもので、そうすると『これ』というのに出会うんだ。その『これ』というものがわかればしめたもの。見た目は好みではないが、自分にとっては一番体質にあう相応しいもの。そして、後はありのままの自分をどこまで認められるかという問題だけだよ」
凰山「あーそれって要ですよね。ありのままの自分ってなかなか受け入れがたいものがありますもん。なにせ欲がありますからね」
野尻「まーね。でも、芸術には自己の煩悩と戦いながら、身を焦すスレスレで歩むプロセスが必要。まず本心の自己を認識することが第一義。自己の見きわめが確かでないと、いつまでたっても自己の歩みがぼんやりとして実感がわかない。しかし、そこに来るまでだってかなりの時間が経過しているよ、きっとね」
凰山「そうでしょうねー今だになんといいましょうーか経過してます(笑)。でも確かに色々なプロセスで何か見えてきた気がします」
野尻「重要なのは、自己の歩みがぼんやりしていると、作品そのものもぼけてくるということ。ピタリとこない。精神的にも感興が湧かないんだ」
凰山「なんかそれすっごいわかる気がします」
野尻「理知も大切だけど、こと表現活動となると自己の純粋性をはかることだよ。理知を働かせ自己を省みないと、マイナー的現象がおきるんだ。だから、素直に古典(伝統)と対話していくことが大切なんだ。わかった?」
凰山「よーくわかりました。ところで、マイナー的現象って?」
野尻「それはね、自己が自己でなくなった時、あるがままの自己と対立している自己のこと」
凰山「え?」
野尻「平たく言うと、自分自身のこと。頭で考えている自分そのもの。そういう時ほど自己がないとも言えるよ」
凰山「自分を考えている自分。それすなわち自分ではないと」
野尻「私一個人としても一学書者でもあるわけだし、一生勉強だと考えているよ。勿論、私の体験を通してでしか話せないけどね」
社会の速度
凰山「今までの話しを通して、それを困難にさせていると思うことがあるんですが。それは、それらをじっくりやる時間が今は無いと思うんです。いや、厳密にはあるんですが、周囲のスピードにのまれちゃう。言わば渦の中の小船ですよ個人なんて。気づいた時には渦の中で、自力では脱出できない。今の社会における速さへの渇望って度を越していると思うんですよ。速さを美徳として価値としている。会社にしろ学校にしろそういう渦中にいる以上は困難ですよね」
野尻「現代は物事を性急に過ぎるようだね。ゆとりが無いと言えばそれまでだけど、自己の身体を使って何かをやろうとすれば、それなりの構えも必要だよ。手仕事の分野の人々に聞けばきっと十人が同じことを言うよ。知っていることは必ずしも出来るとは限らないとね。精神科医に斉藤茂太という人がいるんだけど、この先生の著作に『ゆっくり力』というのがあるんだ。本当の力はゆっくり身につくというわけ。『ゆっくり力』で全てがうまくいくというんだ。急ぐ人は心が貧しいという。そういう意味では『ゆっくり懸命』の方が結果的にみたら全てプラスにいくのかもね」
凰山「あははは。それ面白いですね。スローな私には嬉しい限りですよ」
野尻「この本の中に『人の目が気になる人は、日々追い詰められてゆく』と書いてあったっけ。現代が速さへの度を越しているのであれば、個人としてのポリシーがないともいえるね」
凰山「個人としてのポリシー。芯といいますか中心といいますか、そういうことですか」
野尻「そう。だから一旦時間が過ぎてみると何も成されていなかったとか気づいちゃうわけよ(笑)。なんだったんだろうと思った時には、もう取り返しがつかない所まで行ってしまっている」
凰山「まーある意味では遅く、気づくだけ遅からずですよね」
野尻「そういうこと。速さが美徳というのなら三十年、四十年あっと言う間に過ぎてしまう。私が一番怖いと思っていることだね。ゆっくり充実した一時とは、何も時間が足りなくて永い時間に安定した心を置くことでないと思うんだ」
凰山「具体的には?」
野尻「例えば十分という短い時間をいかにつかえるか、ということかな。無駄が無いようにとか、効率的にとか、速くとか考えるのではなくて、この十分をじっくり過ごすということ」
凰山「んー・・・・えーっとどういうことです?」
野尻「つまりさ、精神的に追われないっていうことだよ。この心術の構えを常日頃もつように心がける。そういう意味においては感性とイメージが必要になってくる。二十一世紀は心の時代というならば、内心の工夫というかな、そんなものを考えてもいいよね」
凰山「私もそう思います。心術、内心の工夫が今迄疎かにしすぎてました。伝える人もいなかったですしね。これも欧米化の弊害だと思います。勿論いいことも一杯あるのでしょうが、骨が歪んでいては治らないですから。私は日本なら欧米の良さとアジアのよさを融合できる素質があると思っているんですけどねー。なんちゃって、偉そうなこといっちゃったりして」
野尻「私が言う五百年は生きたいというのはそこなんだよね。短い一生を只の一瞬に終わらすか、それとも何世紀分も生きることが出来るか、そこなんだよ。さてさて、どうなりますか」
知識至上主義の弊害
凰山「ところで、知っているを連発するのに全く動かない人って多いですよね。昨今、出来てない事実すら否定する人が若い人に多くて仕事をしててもビックリすることが多々あります。なぜなんですかね?」
野尻「それは知識を詰め込んで、だから出来ると思い込んでいるんだ。それは別種の弊害であり、一般に陥りやすいアキレスポイントでもあるね。根気の欠如も素直に作品に出るから。物事は簡単には出来ないんだ。それを知りつつ個々が歩むしかないね」
凰山「ところで、古典の重要性はわかったのですが、実際世間に溢れているものはそうでないですよね?」
野尻「目新しいものにしかないってことね。新しいものや個性的な方向に移行していく現象なんだけど、かえって同じに見えてしまうことってない?」
凰山「おおありですね。音楽しかり絵しかり書しかりですよ」
野尻「現代性を意識すると、無意識の間に同じ視点にはまる。そして、さっきの速さと同じでそこから抜けられなくなる」
凰山「なるほど。ほんと皆そっくりですよ実際のところ。あらゆる分野で新進気鋭とか個性的とかいいつつ、正直ソックリです。この前、ほんとつい先日なんですが、本屋でオカミさんが熱弁をふるっているんです。何かなーと思って耳を傾けると、漫画についてなんですけど、何を仕入れるかの基準について話していたんです。そこで新人の作家の絵が全く同じに見えて驚いたと言ってました。それらはまだ駆け出しのプロの方々のようでしたけど」
野尻「でしょう。ではなぜ新しいものを追う風潮になったのか。単純な疑問が出てくるよね。その原因は何処にあるのかと探っていくと、かなり深いところまで行ってしまうよ」
現代の弊害
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