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[第1話 語り口は自己実現の中] 掲載:2003/1/12 語り:野尻 泰煌(たいこう) 聞き:凰山(おうざん) 原稿:書藝要説九月号より抜粋
* 凰山「今、自分を見失うことから来る問題っていたるところで起きていると思うのですが、先生はどう考えますか。」 泰煌「皆難しく考えすぎなんだよ。だってさ、遭難したときには、自分の持ち物を点検してその中から何が出来るかって自然と考えるよね。」 凰山「そうですね。今自分に何があるのか、何が出来るのか、点検しなおすと。」 泰煌「そういうこと。そうすれば悩むことは無い。だって、今無いものは今出来ないんだから。」 凰山「確かに!シンプルだなー。それって、なんか表現活動にも当てはまりますね。」 泰煌「そう、表現活動(芸術活動)をやるにしても同様な点でいえるよね。そういう意味ではたえず精神的には、自己を遭難した状態に身を置くのもいいのでは(笑)。しかも、山賊に身包み剥ぎ取られちゃって、更に自分だけだった場合を想定する。・・・現実だったら大変だけどね(笑)。」 凰山「しゃれにならないですね。」 泰煌「まー夏にクーラーがガンガンにきいた所で、シュークリームを頬張って、お茶を頂いているような安全地帯の中で想っても詮無いと言えば詮無いけど、でもそれはそれとして、何が残るのかというと、今の自分しかないでしょ。」 凰山「クーラーがガンガンでシュークリームって先生や私のことですか(笑)。」 泰煌「はははは。やっぱりシュークリームを頬張っている自分自身を100?%受け入れるしかないでしょ。心理的にね。それはあくまでも人との比較によって自分を考えないこと。比較したところで自分の人生にとって意味を見出す為には何の役にも立たないから。特に芸術では、一つの自分なりに独自性を結果的に探って行くものですからそうなるんです。自己中とは意味は違うね(笑)。自己中心的な心理はむしろ逆で、人との比較によってマイナスに変転していく心理のありさまだと考えられます。他人の価値を下げる言動などはまさしく自己中のもと。心理的に自己が知らないといううちに地獄界へ落ちてしまう。やですからね生きながら地獄では(笑)。修羅だったり餓鬼に遭遇すると、そら逃げろって慌ててその場所から一目散ですね(笑)。」 凰山「どこまで行っても自分しかないんですねー。他人を羨んでも無いものは無いですからね。それを受け入れられないと、最悪他人の財物や地位や命を奪おうとする。あー怖い怖い。」 泰煌「そうそう。調和の世界に身を置く者にとっては死活問題だから。だから比較ではなく、心術を養うには、自己の内にある持ちものを点検する日々とでもいいますか。自然の動きを大切にするんだよね。元気なうちに歩まなければもったいないでしょ。」 凰山「自分に何があるかねー。それなくしてはないんでしょうねー。自分と向き合うかーキッツイなーっ。」 泰煌「このごろの私は以前よりもまして自己実現しかないんです。限りある時間を何百年と生きなければなりませんからね。不老不死の妙薬なんて案外こうした原点に転がっているんだと、ふと立ち止まってはにっこりしているよ。」 凰山「なんかわかるなー。私ってば思うんですよ。実際に不老不死なってあったらこれほど残酷な刑はないと思うんです。完全なる自由と不老不死なんて過酷を越して残酷ですよ。終わりがないんですからねー。終わりが無いということは始まりも意味がない。点なんですよね。そうそう、今回の名言観賞で鈴木大拙さんの入力していて一人納得していたんです。その「刹那と永遠」にもあるように永遠ってつまりは点で、今、この今しかないんですよね。感動しましたね。すごいと思いました。」 泰煌「ちょっと話が反れるけど、インドではその永遠にも時間の単位があるとか。『ごう?劫?』というのがそれで。象に乗った王様が一日行軍した距離。その距離の長さと高さをもった大石、想像を絶する大きい石だよ。それを磨減らして完全にその大石がなくなるまでの時間を一劫というそうだ。」 凰山「摩減らし?摩擦、摩滅ってことですか。」 泰煌「そう、擦って減らすんだ。それがね、また減らし方がまた面白いんだよ。」 凰山「減らし方。んーじょりじょりと・・・。でも大きさ自体が半端じゃないからなー。何キロ四方の石なんだろ。確実にピラミッドの何十個分とかそういうノリですよね。うはっ、想像できん。」 泰煌「それをねー、慌てて叩き割って粉微塵にするわけでもなく、大きな鉄ヤスリで国をあげて大勢でこするわけでもなく。(笑)なんと、百年に一度天から天女がひらりひらりと悠長に舞い降りてきて・・・。」 凰山「天女ですか?唐突だなー(笑)。」 泰煌「その衣で・・・?するっ?と巨石の上を一度擦るだけ(笑)。それで天女は天へ帰っていく。」 凰山「一回ですか。え?一日で。」 泰煌「それがね、百年に一回。」 凰山「え?」 泰煌「百年後に天女はやってきて同じように一回するっとやる。その繰り返し。」 凰山「えーっ?」 泰煌「それが何度も繰り返され、ついにその大石が摩滅しつくした歳月。それを『劫』というんだ。」 凰山「そんなー百年に一回衣で擦るだけ。それで大石を・・・えーっ、その時間たるや想像絶してるな・・・。また、なんでそんなわけわからん単位をこさえたんですかねー。」 泰煌「それは、インドの人は日本人みたいに単に永遠とか永劫とかいう言葉で表現するよりは具体的だと考えたんじゃないかな。」 凰山「具体的ちゃー具体的かもしれないですけど・・・なんだかなー(笑)。きっと凄い理論的民族なんですね。」 泰煌「『無量寿経』の中に「ごこうしい?五劫思惟?」という言葉が出てくる。五劫だから、そんな大石が五つもある、いわば宇宙的時間を思惟するということになる。そうした永い時間を考えて瞬時の今の今を観る。これに出合った時にはショックを受けたねー。そしてよくわかった。聞き分けの悪い私がよくわかったんだから「五劫思惟」とは大したものだと思っている。この度の個展にも書いた。また次回の個展にも書く。その後の個展にも書きたいね。自分のイシが摩滅するまで。(笑)」 凰山「あはは。石とイシ、笑うところですね(笑)。」 泰煌「話を戻すけど、潜在的な能力の開発は日常の書の仕事の一方で地道に行います。それは、書以外の自分の好きなものの全てを体に蓄えるわけよ。そして、体質に適合したものだけを煮詰めて、自己の本来のフォームにしていくわけなんですね。具体的には、自分が今何をやりたいのかという問いに対して、自ら探っていく日々が当然の結果として存在するわけですね。その為には興味のあるものに絶え間なく触れるんです。昔から言われている事柄に、多く読む、聞く、見る、というのがあります。多く読むとは、私の場合には、触手の動くもの全てを手当たり次第に購入して読むんです。」 凰山「触手、つまり気になるモノやコトっていう意味ですね。」 泰煌「そう。藤澤周平氏(作家)が「一行一行を納得しないと前にすすめないという厄介な癖がある。」と言っていたね。司馬遼太郎氏もどこかの本に同じようなことを書いてましたね。それで私もその厄介な癖とやらをまねして読んでいます。乱読って結構読んでいるようでいて読みきっていない場合がありますからね。そのことは学書にしてもいえますよ。臨書なんかでも書いているようでいて書ききっていない。一字一字を納得しないと前に進めないもんだね。」 凰山「なるほどーっ。一行一行納得かー。そういう意味では、泰永書展のキャッチなんですが、あれはそうやってますね。あれって何度も口に出したり、見たり、大きさを変えたりして色々と試しますね。あれだけで数日もしくは以上かかってるかも。キャッチって短い言葉に全てが込められているのでリズムとか音とか、字の構造バランスとか気に入らないと、何度でも直しますね。何かが気に入らないとお尻がむず痒い。 泰煌「面白いね。人の話を沢山聞く、喋るよりも聞き手にまわる。これは見ると同じように大切。テレビでもラジオでもなんでも興味あるものは聞きまくる。音楽も好きな曲を聴きまくる。僕は、耳に入る全てのものに興味を持って聞いていればいいと考えてるよ。音楽なんかは興味あるものは何十回と聴くよ(笑)。そこだけをね。」 凰山「フレーズってことですか?」 泰煌「そう。もっと短くてもいい。その一部だけをね。レコードが擦り減るまで聞いたよ。」 凰山「へーっ。そういや私も小学生の時に買ったスターウォーズのレコードは、オープニングの前奏と、ダースベイダーのテーマばっかり聞いてました。あとはどーも退屈で(笑)。当時は、なんかいけない事をしているような気がしてましたけど、それで全く問題ないんですね。なーんだ、もっと聞いとけば良かった(笑)。」 泰煌「いけないことなんて無いよ。飽きるまで聞けばいい。人間の記憶力って凄いと思うね。ほとんど覚えているよ。」 凰山「え・・・。」 泰煌「何度も聞いたものって覚えてない?」 凰山「そういえば。もうずっと聞いていないのにオープニング覚えてるなー。今聞いてもワクワクしちゃう。それと本当に何の役にも立たないことばかり覚えてるかも(笑)。」 泰煌「いや、それでいいんだよ。役に立つ立たないとか、そういう打算で考えてちゃいいものは出来ないよ。そういう何度も聞いた曲ってさ、違いがわかるようになるでしょ。」 凰山「あーわかります。しょぼい演奏とか聴くと、えー違う!これじゃ駄目やっ!と力説したくなります。」 泰煌「でしょ。同じ曲であってもコンダクターが違うと、別物に出合ったようで新鮮。音の強弱や高低、間合いというのかな、それによって音楽時間は異なるね。違って聞こえてくる。自分の趣味に合うと背筋がぞくぞくするよね(笑)。」 凰山「うわっ、それスッゴイわかります!んもー大変です。」 泰煌「それには同じものを何十回と聴いてみないと、ぞくぞくの度合いが違う。一旦飽きが来るまで聴かないと本当のうまみが感じられない。管弦楽法に手を加えなくても異なって聞こえるんだからね。コンダクターの采配で違いが出るんだよ。」 凰山「なるほどねー飽きるまでかー。」 泰煌「古典臨書と同様な点がいえるね。だから自分の語り口の表出の早道は、自分では語らないことがいいと考えている。自分で語っているつもりでも、語っている内容が自分でわからないという妙な結果に終わりますから(笑)。」 凰山「あーなんか耳がいたいなー。ありますよねー言ってくることとやってることが全然違うみたいな。冷静に思い起こしてみると自分でも?マークがついてしまう。つい口がぺらぺらと。」 泰煌「ふふ。これも、自然の動機といえるね。認識作用の目的となるものに寄り添う。認識に生きるというけど、そういうことなんでしょうね。」 凰山「見る。ということなんか特にそうじゃないですか。」 泰煌「そう。見るとは、美術は言うに及ばずありとあらゆるジャンルに関係するね。映画もよく見るよ。映画は親父が映画通で、ダビングをまぜると445本あるよ(笑)。SFものや、歴史巨編に愛と冒険の物語とか(笑)感動するね。」 凰山「あははは。あれは凄い!私もお借りしたことあります。」 泰煌「私は玩具を見て歩くのが好きなんだけど、よく池袋パルコの模型店に行くね。小学校の頃からそこが気に入っているんだ。主に外国の玩具だったかな。当時は日本製よりよく出来ていたね。玩具でも模型や装飾品、仮面や昔の鉄砲やミリタリーのミニチュアやら、スターウォーズのレプリカやら、全てに興味をもってみてしまうね。造型の面白さっていいよね。こうして、なるべく多くの言わば栄養を体に取り込む。その取り込んだ後は、まっさらにしてしまう。」 凰山「え、どういうことです。」 泰煌「つまり、自己の思考は抜きにするんだ。観念を外しておくのが要ですからね。その間何をやっているかというと、いつもの仕事、書なんだ。書いて書いて書く。臨書は毎日。そして体に蓄えたものが最後まで体にとどまったもので、自分を見つめる材料にする。体質に合わないものは体内に消化酵素がないので丸まんま出てしまう。そういうものは、その個人には必要ないものですからね。しかし、出会いによって途中から消化酵素が出来る場合もある。やっている時は無意識ですからね。だけど人間は正直ですから今の自分の足元を見れば全部揃っているもんです。それをどれだけ受容転回できるかが課題。」 凰山「蓄えてまっさらにかーうーん。」 泰煌「ふと浮かぶ言葉や熟語などや、その他日常の行動の中でどうしても消し去ることの出来ないことなど。全てノートに書き記しておく。ある程度溜まった段階でそれらのことがらを整理してみる。」 凰山「え、整理するんですか?メモはですねー頭が痛いなー。なんか衝動的に過去何度もトライして挫折しているんですよ。必要というか重要だとは頭で理解しても思いついたことメモしてて一日終わったことありますからねー。」 泰煌「日常的なことは頭で整理するんだよ。それをある程度の期間おいてそれでも覚えていたらノートに書く。それは全てを書き留めてたら一日終わってしまうね。(笑)」 凰山「そっか!どーりで。本当に終わっちゃうんですよ。それで嫌になっちゃう。頭で整理するのか。実に単純なことや。忘れちゃうのは忘れるままにすればいいってことですね。」 泰煌「そういうこと。」 凰山「いやーこれすっごい重要な気がします。」 泰煌「そして、統計的に観察してみる。そうすると現在の自己が見えてくるんだ。これが歩みの断片なんだよ。嘘偽りの無い本性が出てくる。そんなものを拾いながら自分を探っていくんだ。その後は、それらの転回応用していけばいいだけ。だから、体に蓄えるだけ蓄えなきゃいけない。」 凰山「入れなければ・・・」 泰煌「そう、いい意味で出ない。後は、自己の直感かな。」 凰山「転回応用かー難しいなー。」 泰煌「例えばさ、相反したものを合一すること。集中と拡散であるとか、部分と全体であるとか、緻密と奔放であるとか、制約と自在であるとかね。」 凰山「そういえば、臨書において先生の取り組みには度肝抜かれましたよ。プラバンを使って文字がどの程度ズレているか確認するじゃないですか。あの緻密さときたら人間業じゃないですよ。思いついてもやる人いないですよ(笑)。しかもやり続ける人なんて皆無じゃないですか。しかも、輪郭だけで見ると観念が生まれるちゅーことで、塗りつぶしたり、白抜きにしたり。まー本誌の書藝要説でやってるあれですよね。確かに白は膨張色だから大きく見えるんですよね。とはいえ、凄いですよね。」 泰煌「あはははは。あれが臨書における緻密だね。奔放は、皆もやっている、ただただ見ながら書くという。」 凰山「うはっ、奔放しかしてないわ。」 泰煌「常々言っているけど、僕は書作で自分の全てを出来るだけ動員して実感したい。ただ普通と違うのは、それをパッと何気なく見せたいんだ。禅語で言えば「全機現」。これは自己の深層意識の開発の部分で、かなり時間もかかる営みだね。」
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